
大友克洋の「童夢」は、大友克洋を一気にメジャー化した「AKIRA」の前作である。
といっても、「童夢」のストーリーに「AKIRA」の直接的な伏線があるわけではない。
しかし、大友克洋が描いた「童夢」という漫画には、「今これが描きたい!」という作家としての意思がそこ此処に現れているのである。
しかし、現在販売されていないのだろうか?アマゾンでは高値で古本が販売されている。
こんな名作を再販しないだなんて、文化的損失だと思うのだが…
童夢を買った時の思い出
確か私は「童夢」の単行本が発売されたその日の朝に、手に入れた覚えがある。そして、そのままモーニングサービスをやっている喫茶店になだれ込み、一気に読了した。
多分まだランチの時間にもなってなかったと思う。そしてそのまま「童夢」の熱に突き動かされて下宿まで帰った覚えがある。
今思えば「童夢」を発売日に買うためだけに町へ出ていた。
前評判は高く、発売予告ビジュアルもなかなか迫力のあるものだった。(これは、表紙カバーの流用…というより本編のひとコマを流用していた記憶がある)
でも描き下ろしといわけではない…というところがご愛嬌だった。(笑)
ただ、なぜ電車に乗ってまで発売日に買いに行ったのか?
それは売り切れるだろうことが必至だったからなのだ。特に田舎の本屋には入荷しないだろうと思われていて、わざわざ街中まで買いに出たのだ。(なので手元の本は初版本)
この作品から大きく表現が変わった大友作品
それまでの大友作品に比べて「童夢」と言う作品が違うのは、実験的とも言える新しい表現、ストーリーの構成が緻密、テーマと主人公の取り合わせ(日常×非日常)が新鮮、と言った点があると思うのだ。
特に長編のストーリーがしっかりと固めてあり、話が緻密な上に絵も緻密なので読後感はお腹いっぱい状態になる。
「大友克洋の影響を受けている作品」が目に見えて増えるのは厳密に言うと「AKIRA」以降なのだが、「童夢」こそが、日本の漫画にその後いく年も影響を及ぼし続ける、80年代の大きな予震だったのだ。それほどのインパクトがこの作品にはあるのだ。
大友以前、大友以後とまで言われる表現

あまりにも有名な「ズン」のワンカット。見えないもの「圧」を視覚化したカットなのだけど、これまでの表現では効果線を描くことで、見えない「圧」を表現したのだけどこれを絵に昇華している。
個人的に思うのだが、このように絵にできたことで、映画での表現が可能になったのではないだろうか?(実写映画じゃ効果線入らんもんね)
以降この表現に映画、アニメが多大な影響を受けた。

そしてもう一つ。
最終的に表の世界の犯人にされてしまう、この男だけど、拳銃を手にして無意識に銃殺してしまった時の表情に凄みがある。
漫画表現の中で、これほど「いっちゃった人」を的確(と言うのも的確ではないかもしれないが)に表現したものはあっただだろうか?
映画では「いっちゃった人」がたくさん出てくるけれど、本当に「いっちゃった人」感が出ているのは少ないと思う。
最近ではクリストファー・ノーラン監督の「ダークナイト」に登場するジョーカー役のヒース・レジャーぐらいか。。。
AKIRAが有名だが、実は童夢ですでに完成されている
ただ、これだけの完成度がある「童夢」を生み出してなお、「AKIRA」を描いたというのは、よほどこのテーマと表現を追求したかったのだと思う。
童夢を隅々まで見る限り、表現もストーリーのコア部分もここである程度完成されている…と思うのだ。AKIRAは長編だったので童夢との比較は、かなり時間が経てからでないとできなかったのだけど、今感じる限りやはり童夢で様々なものは完成されていたと思える。
大友克洋の作品としては、AKIRA以降作品として目立ったものはない。映画監督やアニメ制作なども手がけているところを見ると、漫画という表現を一旦区切ったのかもしれない。
一つだけ惜しいなと思うのは、童夢以前の作品の中では必ずどこかふざけていた感(悪ふざけも含めて)のある大友克洋が、この作品以降あまりふざけていないように思える。
これが、個人的にはとてもさびしいのだ。。。
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